Masuk廊下の空気が止まった。
婚約を破棄された直後に、知らない男性から求婚される。
そんな出来事を理解するための経験を私は持っていない。
「……どちら様ですか?」
どうにか出てきたのは、それだけだった。
男の目が見開かれる。
先ほどまで直哉を一言も逃さず追い詰めていた人とは思えないほど、明らかな動揺だった。
「俺が分からないのか?」
「すみません。どこかでお会いしましたか?」
「会った。何度も話した」
「仕事関係でしょうか?」
「違う」
男は即答した後、なぜか言葉を失った。
直哉が低い声で私を呼ぶ。
「小春。この方は皇帝人(すめらぎ・みかど)さんだ。皇グループの次期総帥といわれている」
皇帝人。
名前は知っている。
国内外にいくつもの企業を抱える皇グループ。その創業家に生まれ、若くして中枢を任されている人物だ。経済誌で見た写真より実物の方がずっと威圧感がある。
だからといって、求婚を受ける理由にはならない。
「皇さん。彼女は混乱しています。これ以上、無責任な冗談を――」
「俺は冗談で結婚を口にしない」
帝人さんは直哉を一瞥した。
「それに勘違いするな。俺はお前との婚約に遠慮して、何もせずにいたわけではない」
「……どういう意味ですか」
「小春を見つけた時には、すでにお前との婚約が成立していた。それでも俺は求婚するつもりだった。誰を選ぶか決めるのは小春であって、お前ではないからな」
あまりにも堂々とした発言だった。
婚約者がいる女性への求婚を宣言しているのに、後ろめたさが一欠片もない。
「なら、なぜ今まで何も――」
「見つけたばかりだった。今の小春がどこで暮らし、何をしているのかを確認していたところへ、お前が別の女と結婚するらしいと聞いた」
帝人さんの視線が鋭さを増す。
「事実を確かめに来てみれば、この有り様だ。お前は自分から婚約を解消した。今さら俺の求婚へ口を挟む立場ではない」
「問題しかありません」
思わず口を挟むと、帝人さんは素直にこちらを向いた。
直哉へ向けていた冷たさが少しだけ薄れる。
「何が問題だ」
「私は今、婚約を破棄されたばかりです。それに帝人さんのことを何も知りません」
「俺はお前を知っている」
「一方だけ知っていても結婚はできませんよ」
「い、いや、それはだな……」
帝人さんが初めて言葉に詰まった。
私の言っていることは難しくない。けれど彼は思いもしなかった壁へぶつかったような顔をしている。
「では、どうして私を知っているんですか?」
「幼稚園の頃に会っている」
「幼稚園……?」
あまりにも昔の話だった。
通っていた園の名前は覚えている。けれど先生の顔も友達の名前も、今ではほとんど思い出せない。
まして目の前にいる大柄な男性と結びつく記憶など一つもなかった。
「どこの幼稚園ですか?」
「ひかりの森幼稚園だ」
それは確かに私が卒園まで通っていた幼稚園だった。
「同じ幼稚園だったんですね。でも、皇帝人くんという名前には覚えがなくて……」
「当時、お前は俺を名前で呼んでいなかった」
「では、何と?」
帝人さんはすぐには答えなかった。
先ほどまで直哉を一言も逃さず追い詰めていた人が、なぜかひどく言いづらそうに視線を逸らす。
「帝人さん?」
「……みーくんだ」
その呼び名が耳へ届いた瞬間、胸の奥で小さな何かが揺れた。
「みーくん……」
口に出すと、ひどく懐かしい響きがした。
赤い車のおもちゃ。
園庭の隅に立つ大きな木。
その根元で膝を抱えていた、小さな男の子。
まだ輪郭の曖昧な景色が、記憶の底からゆっくり浮かび上がってくる。
「もしかして……」
帝人さんは私を見つめていた。
鋭く冷たいはずの黒い瞳に、今だけはどこか不安そうな色がある。
「あの時の、みーくん?」
「ようやく思い出したか」
低い声には安堵がにじんでいた。
けれど私が思い出せたのは、名前とぼんやりした姿だけだ。
なぜ泣いていたのか。
私が何をしたのか。
そして、どうしてあの日の男の子が二十年以上も経った今、私へ結婚を申し込んでいるのか。
まだ何一つ分からなかった。
交流会から数日後。 久我さんの名前を、もう一度見ることになった。「帝人さん、久我さんから面談希望が来ています」 予定表を確認しながら伝えると、帝人さんが顔を上げた。「何の用だ」「企業再編案件について意見交換をしたい、とあります」「具体性がないな」「一時間ほしいそうです」「三十分でいい」「半分になりましたね」「案件もないのに一時間も必要ない」 いかにも帝人さんらしい。 私はそのまま予定を入れようとして、ふと手を止めた。「……私、同席します?」「当然だろう」「当然なんですか?」「小春が外れる理由があるのか」「いえ、ありませんけど」 久我さんは前回、明らかに私を観察していた。 帝人さんへの近道になるのか。 私が何か言えば、その判断が変わるのか。 冗談めかしてはいたけれど、何かを確かめようとしていたのは分かる。「気になるなら断るぞ」「え?」「久我に会うのが嫌なのかと思った」「違いますよ。そこまで警戒してません」「ならいい」 帝人さんはそれだけ言って、すぐ資料へ視線を戻した。 私が同席するかどうかを、最初から迷っていなかったらしい。 ◇◇◇◇ 三日後。 久我さんは約束の五分前に現れた。「先日はどうも」「こちらこそ」 応接室へ案内すると、久我さんは私を見て少し笑った。「今日は倉橋さんもご一緒ですか」「はい」「よかった」「何がです?」「皇社長と二人きりだと、三十分が十五分になりそうなので」 否定できない。「内容がなければ五分で終わる」 後ろから帝人さんの声がした。 久我さんが笑う。
交流会も終盤に差しかかり、人の流れが少しだけ落ち着いてきた。 帝人さんは金融機関の役員に声をかけられ、少し離れた場所で話をしている。 私はその間に、今日交換した名刺と予定を確認していた。「倉橋さん」 名前を呼ばれて顔を上げる。 先ほど何度かこちらを見ていた男性だった。「初めまして。久我征一郎と申します」 差し出された名刺を受け取る。「倉橋小春です」「存じています」 穏やかな笑顔。 帝人さんから聞いた名前と一致する。 企業再編を専門にしているコンサルタント。「皇グループとは、以前何度かお仕事をご一緒しました」「帝人さんから伺いました」「もう聞かれましたか」「久我さんのお名前だけですけど」 そう答えると、久我さんは少し笑った。「警戒されています?」「まだ何もされていないので、警戒する理由はありません」「では安心しました」 本当にそう思っているのかは分からない。「先ほどから拝見していましたが、倉橋さんは皇社長にかなり信頼されているんですね」 またその話だ。「仕事では、そうだと思います」「仕事では?」「私は秘書ですから」「でも皇社長は、秘書だからではないとおっしゃっていましたよ」 聞かれていたらしい。 私は困って少し笑った。「帝人さんは、思ったことをそのまま言う人なので」「なるほど」 久我さんの目が少しだけ細くなる。「では、倉橋さんの意見次第で皇社長の判断が変わることも?」 なんとなく。 質問の向きが変わった気がした。「ありますよ」 あえて否定しなかった。「たとえば?」「私の意見に帝人さんが納得した時です」 久我さんが少し黙る。
企業交流会は、その後も続いた。 帝人さんの周りから人が途切れることはほとんどない。 取引先。 金融機関。 関連会社。 以前一度だけ会った人もいれば、私は初めて見る人もいる。 帝人さんは相手によって態度を変えない。 必要な話は聞く。 必要のない話は長引かせない。 曖昧な提案には、その場で曖昧だと言う。 こういう場所では特に、帝人さんらしさがよく分かる。「皇社長」 次に声をかけてきたのは、五十代くらいの男性だった。「少しだけよろしいですか」「ああ」 名刺交換のあと、話は来期の共同事業について移った。 私は少し後ろに下がり、内容を確認しながらメモを取る。「こちらとしては、年内に方向性だけでも決めたいと考えております」「年内というのは、契約条件までか。それとも基本合意までか」「できれば契約条件まで」「無理だな」 帝人さんは即答した。 相手の男性が苦笑する。「相変わらず厳しいですね」「厳しいんじゃない。必要な工程を飛ばす気がないだけだ」 帝人さんは資料へ視線を落とす。「これだけ関係会社があるなら、年内に条件を固めるには遅い。基本合意までなら検討できる」「では、その線で一度――」「小春」「はい」「年内で空いているのは」 私は予定を確認する。「基本合意の協議なら、十二月第二週までです。それ以降は海外案件と取締役会が重なります」「なら第二週までだ」 男性が私を見る。「倉橋さんでしたね」「はい」「皇社長の予定は、かなり厳しく管理されているんですね」「管理というより、増やさないようにしています」 つい本音が出た。 男性が笑う。「社長の
翌週の木曜日。 私は帝人さんと一緒に、都内のホテルで開かれる企業交流会へ来ていた。 皇グループの主要取引先や金融機関、関連企業の役員が集まる会だ。 今日は完全に仕事。 帝人さんもいつものスーツ姿で、会場へ入った瞬間から表情が変わっている。「皇社長、お久しぶりです」「先日の件ですが――」「来期の計画について、一度お時間を――」 次々に人が集まる。 帝人さんは相手の話を短時間で整理し、必要なものだけ答えていく。 私は少し後ろで、名刺や予定を確認しながら必要な情報を控えていた。「来月でしたら、第三週以降で調整できます」 そう伝えると、帝人さんが振り返る。「第四週は駄目だ」「海外出張ですね。では第三週で確認します」「ああ」 短いやり取り。 いつものことだ。 少なくとも、私たちにとっては。 しばらくして、ある企業の専務が新規事業の話を持ちかけてきた。「皇さんなら、かなり面白い案件だと思っていただけるはずです」 渡された簡単な資料に帝人さんが目を通す。「規模を広げすぎだ」「ですが、この市場なら先行者利益が――」「それを理由に初期投資をここまで増やす必要はない。需要予測も強気すぎる」 帝人さんは容赦がない。 相手もそれを承知しているのか、すぐに次の説明へ移った。「もちろん段階投資も検討しています。ただ、最初からある程度の規模を取らなければ――」 説明を聞きながら、私も資料を見た。 一つだけ気になる。「帝人さん」「何だ」「これ、初年度から全国展開する前提ですけど、地域を限定した場合の試算はないんですか?」 専務が私を見る。「限定展開、ですか」「はい。需要予測に幅があるなら、最初から全部取るより、地域ごとの反応を見てから広げる
「帝人さん、決まりました?」「まだだ」 向かい側で、帝人さんは真剣な顔でメニューを見ている。 会議資料でも読んでいるような顔だ。「そんなに悩みます?」「種類が多い」「洋食屋さんですから」「ハンバーグだけで四種類ある必要があるのか」「ありますよ」「チーズ、目玉焼き、和風、大根おろし」「楽しそうじゃないですか」「選択肢を増やせばいいというものでもない」「メニューにまで経営判断みたいなこと言わないでください」 私が笑うと、帝人さんは少し不満そうにページをめくった。「小春は」「オムライスにします」「もう決めたのか」「ここに来る前から決めてました」「なら先に言え」「帝人さんの分まで決めるんですか?」「そういう意味じゃない」 結局、帝人さんはデミグラスソースのハンバーグを選んだ。 料理が運ばれてくると、今度はしばらく黙って食べる。「どうです?」「うまい」「よかった」「値段を考えれば、かなり――」「帝人さん」「何だ」「今日は評価しなくていいです」「感想を言っただけだ」「その続きを聞いたら絶対、原価とか回転率の話になります」 帝人さんが黙った。 当たっていたらしい。「普通に食べてください」「普通に食べている」「じゃあ普通の感想を」「小春と来てよかった」 危うくスプーンを落としそうになった。「お店の感想です」「店も悪くない」「順番が逆です」「俺にとっては合っている」 さらっと言って、また食事へ戻る。 本当にこういうところだけは慣れない。 私はオムライスを一口食べて、話題を
金曜日の十八時。「帝人さん、行けますか?」「ああ」 執務室から出てきた帝人さんの手には、仕事用の鞄だけ。 追加の資料もない。「珍しいですね」「何がだ」「本当に仕事を持って帰らないんだなって」「今日は小春と食事に行く」「食事のあと仕事する可能性は?」「ない」「成長しましたね」「だから俺を子供扱いするな」 そう言いながらも、少し機嫌がいい。 私はバッグを持ち、エレベーターへ向かった。「店は決めたのか」「はい」「どこだ」「着いてからのお楽しみです」「なぜ隠す」「帝人さんが事前に調べそうだからです」「調べて何が悪い」「メニューと価格と口コミを全部見て、入る前から評価を始めるでしょう?」 帝人さんが黙った。「しますね?」「店を選ぶ以上、情報を確認するのは普通だ」「今日はしなくていいんです」「小春は確認したんだろう」「しましたけど、私は普通にお店を探しただけです」「何が違う」「帝人さんの場合、視察になります」 エレベーターの扉が開く。「今日は仕事じゃありません」 昨日、自分で言った言葉を返すと、帝人さんは何も言わずに乗り込んだ。 ◇◇◇◇ 連れてきたのは、駅から少し離れた洋食店だった。 大通りから一本入った場所にある、小さなお店。 テーブルは十卓ほど。 白いクロスもないし、入口に案内係もいない。 店先には手書きの黒板が置かれている。 帝人さんが看板を見た。「ここか」「はい」「予約は」「できません」 帝人さんが私を見る。「できない店を選んだのか」